「上海游記 ~”第8回SLE国際会議”で発表して~」

 芥川龍之介は「上海游記」で次のように述べている。上海は支那第一の「悪の都会」だとか云う事です。何しろ各国の人間が、寄り集まっている所ですから、自然そうもなり易いのでしょう。私が見聞しただけでも、風儀は確に悪いようです。たとえば支那の人力車夫が、追剥ぎに早変りをする事なぞは、始終新聞に載っています。又人の話によれば、人力車を走らせている間に、後から帽子を盗まれる事も、此処では家常茶飯事だそうです。
 爾来(じらい)八十六年、私共も2007年5月24日(木)~27日(日)の3泊4日、中国・上海へ出掛けた。当会議は三年に一度、世界各地で開催される全身性エリテマトーデスの病因・病態・治療に的を絞った国際会議である。第一回は、カナダのカルガリーでスタートした。第2回(1989年)のシンガポールでは「沖縄県におけるSLEの臨床的解析」を発表した。第3回(1992年)のロンドンでは「沖縄県におけるSLEの十年間の追跡調査」を発表した。今回は近隣の上海でもあり、最近の仕事をまとめて「急性ループスネフローゼ症候群の治療」としてポスタープレゼンテーションをした。

 会場は上海国際会議中心(コンベンションセンター)である。会場ではさまざまな衣装や容姿、格好が驚きで、Tシャツにジーンズやリュックにサンダルで家族旅行も兼ねて参加しているという御方も見受けられた。かのSLEの大家、ドクター、ヒューズはユニオンジャックの下、英国スーツを着こなすジェントルマンであった。当日の発表に関しては、喧噪(けんそう)の中で特段の関心や注目度が低かったのは残念であったが国際学会の中でポスタープレゼンテーションの形式にも問題があるかもしれない。
 中国最大の都市上海は黄河の支流、黄浦江に跨(また)がって発展している。両岸に旧都市と新都市が広がり、二〇一〇年の万博に向けて建設ラッシュである。超高層ビルが林立し、地震がないので百階建てのビルも建設中であった。ニューヨークの摩天楼、マンハッタン島の規模を平面的にも立体的にも凌駕(りょうが)するのではなかろうか。その中心部に威容を誇るランドマークが東方明珠電視タワー(テレビ塔)である。このテレビ塔は高さ四百六十八メートルで東洋一、世界でも三位を誇り、上球、中球、下球部分に展望台が設置されており、遠くから外観を眺めても、芸術的な建造物としてユニークでおもしろい。上球の展望台から見下ろす上海の夜景は、ネオンきらめく広大な平野で、その真下には一条の川が流れ、黄浦江リバークルーズの小船がネオンで照り輝いて巡航していた。
 タワーの前にある複合ビルにはレストランやショッピングセンターもあり、高級腕時計、有名服飾メーカーが多数入っていたし、日本製衣料店や玩具店、回転寿司もあり、コンビニも日本と変わらないぐらい多かった。そこのレストランで昼食、夕食とも中華料理を食べ、上海料理、北京料理、四川料理などさまざまな種類の中華料理を堪能することができた。料理は豪華であったが驚くほど安かった。
 帰路、超高層建築物の街頭、自転車の荷台で、畑より搬入した西瓜(スイカ)の輪切りの薄片を串刺しにして、手ぬぐいで汗を拭(ふ)き拭き、通行人に立ち売りする一人の農夫在り、現在の上海を象徴する風景と思った。
 上海の街は人が多い、どこへ行っても人、人、地方からの観光客、出稼ぎ、物売り、欧州、アメリカ、韓国、日本の観光客、いろいろな国の言葉が飛びかい、人種のるつぼで、人酔いしそうになった。自動車もいっぱいで道路はいつも渋滞していた。自転車も多いと思っていたが、それよりもエンジン付きや電動付き自転車、原付の方がはるかに多かった。蒸し暑さの中で、交通量が多いがゆえにその排気ガスが都市中に充満しており空気は汚れていた。それでも道路の広さは格別で、片側車線で最大五車線という巨大な高速道路もあった。又、郊外の空港から市内まで三十キロの距離を時速四百三十キロのリニアモーターカで一直線、ほんの数分ほどで到着した。
 ところで会場に入る前から、近くの大きなビルの屋上の上海海洋水族館の看板に注目し、徒歩で五分程の距離と見込みを立てていた。幸いにも時間はすぐ工面できた。学会でも、理解困難で、興味が持てないプログラムを割愛し、水族館での「魚類の生態観察」へと振り替える自主プログラムを作成したのである。時間は優に二―三時間はあった。学会のシンポジウム以上に興味をそそられることとなった。
 大都会の中心部で、超高層ビルが何と水族館なのである。アジア最大級の規模を誇りアマゾンやアフリカからも魚類を取り寄せているという。階上より地階へ各階に川辺の生き物、海辺の生き物、さんご礁の生き物、深海の生き物と立体的に配置されていた。ただちに、エスカレーターで川から海へ下ることにした。
 最初の出迎えは鰐公(ワニ)であった。川辺にたたずむ揚子江鰐は一見生き生きとしていたが実は剥製(はくせい)であった。というのは二―三分、上下左右から観察していたのだが、その間微動だにしなかったのである。
 次の間の大部屋の中で、悠々と回遊する一群の紅色斑点帯模様黄金淡水魚類(アロアナの一種)の乱舞は息を呑(の)むほどの圧巻であった。
 次の階では、ガラス越しに水中の石庭を観賞していた。数点の岩石を配置し、その昔、拝観した京都の龍安寺を連想させる箱庭と思った。突然、大きくて、太い、黒い、長径一メートルほどの丸太棒の様な岩石がゆらりと動いた。その岩石がこの岩陰からあの岩陰へぬるりと這(は)いずり抜けた。再び静止し、そこの岩石のごとくとなった。ほんの三秒ほどの出来事であった。もしこの三秒を見逃せば、今も前も何の変哲もない箱庭である。動く岩石は大山椒魚(オオサンショウウオ)であった。深山の山間の谷川で静かに健やかに成育したのが捕獲されて、ヒトの観賞用に飼育されているのであろう。見事な擬態で太古の昔から今日まで生き延びた生命に敬意を表した。同時に、今、彼はここで何を考えているのだろうかという妙な妄想に取りつかれたものである。お隣の水槽では、カブトガニがひっくり返って、もがきながらお腹(なか)を見せて笑っているように見えた。また、身動きもせずそのまま死んでいるものもあった。
 長さ155メートルの水中トンネルをくぐり抜け、最下層の地階へ下りて、さんご礁の生き物を見ていると、沖縄に帰ったかのごとく安心した。深海の生き物は沖縄の深海魚と同様、暗く、無気味な沈黙の中にあった。その沈黙の中で、先ほどの妄想を打ち消すほどの重圧を感じた。エレベーターで急上昇し元へ戻り街へ出ると、喧噪の中に現実があった。大都市の群集の中で、けし粒ほどの自分を自覚した。徒歩で学会会場に帰り、既に録画されているシンポジウムのDVDを購入予約した。
 芥川龍之介は「支那游記」の自序で次のように述べている。「支那游記」一巻は畢竟(ひっきょう) 天の僕に恵んだ(或は僕に災いした)Journalist的才能の産物である。僕は大阪毎日新聞社の命を受け、大正10年3月下旬から同年7月上旬に至る120余日の間に上海、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、北京、大同、天津などを遍歴した。それから日本へ帰った後、「上海游記」や「江南游記」を一日に一回ずつ執筆した。
 文豪に倣って本紀行文を綴(つづ)ってみた。国際会議も上海も想像を絶するほどの企画、規模でその全貌を掌握し描写することは困難で、到底筆の及ぶところではない。いわば群盲象を評するの類であろう。

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